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WTCの再建 - 資本主義のアイコンは如何に再生されたのか【1】

 

『グローバル・アーキテクチャー』の総本山としてのWorld Trade Center

ニューヨークのテロと言えば誰しもが2001年9月11日の同時多発テロを思い出すはずですが、それ以前にもワールドトレードセンター(WTC)はテロの被害を受けています。1993年2月26日に当時のツインタワー(北側)の地下駐車場に爆発物を積んだトラックが潜入し、地下5階分もの広範囲を爆破させ、死者6人そして負傷者は1,000人以上にも上りました。WTC再開発の象徴の一つであるツインタワーの跡地に作られた滝の慰霊碑の縁には、同時多発テロの犠牲者の名前と共に1993年のテロの犠牲者6名も刻まれています。WTCは近代主義、資本主義を象徴するアイコンでありこれらの理念と思想を違える勢力にとって常に攻撃の対象となってきたとも捉えられると思います。今回のブログシリーズでは世界中にその伝道師たるコピープロジェクトが蔓延した『グローバル・アーキテクチャー』の総本山でありラスボスでもあるWTCの再建計画を時系列で振り返り、その背景にあった政治経済、地元のポリティクス、建築デザインの変遷等、今の世の中で『建築』をする際に必ず直面せざるをえないドラマを浮かび上がらせることを目論みたいと思います。

資本主義・近代主義のアイコンだった旧ワールドトレードセンタービル 出所:https://www.history.com/news/world-trade-center-stairwell-design-9-11

資本主義・近代主義のアイコンだった旧ワールドトレードセンタービル
出所:https://www.history.com/news/world-trade-center-stairwell-design-9-11

ニューヨークは2001年の同時多発テロまでは、同じくローワーマンハッタンのWorld Financial Centerを軸としたバッテリーパークの再開発以降(当ブログに頻繁に登場するシーザーペリ事務所の設計です)、20年以上もの間大きな再開発はされておらず、オフィスビル、インフラ施設の老朽化が目立ってきており、世界の中心都市としての競争力が低下してきていたとされる時期でもありました。現在はWTCの再開発を皮切りに、マンハッタンミッドタウンエリアの西側一帯の全米史上最大規模とされるハドソン・ヤードの大規模開発や、イーストリバーの対岸一帯(ダンボ、ネイビーヤード、ブルックリンダウンタウン)の再開発は近年多数のスタートアップ、ベンチャー企業を誘致しここから誕生しました。今年4月にはネイビーヤード(海軍の造船所の跡地)に“Dock72”が竣工し話題となりました。また、ミッドタウンの超一等地ではスーパーラグジュアリーコンドの建設計画が引っ切り無しに続いています(ブログ別記事にリンク)。

WTCの再開発がスタートして15年以上が経ちますが、今なお進行中のビルもあり如何に16エーカーの土地の再開発プロジェクトが巨大であるか、官民の意見の対立、経済面の課題、景気変動の波、地元デベロッパーや企業の主張など、多種多様な障壁が存在するか窺い知ることができます。WTCはアメリカという国家が世界に誇ってきた資本主義や民主主義の象徴であり、その再建はこれらの理念の見本となるべきもの、という宿命を負っていました。一方、建築的な側面から見るとWTCは近代デザインの評価の中で全くと言って良いほど賞賛されてこなかったと言えます。マンハッタンの優美なスカイラインを破壊してしまったただの退屈な直方体の箱ではないか、と。シーグラムビル(ブログ別記事にリンク)。とは対極的に近代建築の中の悪しきデザインの筆頭におかれていたとも言えます。一方、効率性、経済性、反復性、等近代建築デザインの基本原理の究極的な到達点にWTCがあった、という見方を否定することは難しいでしょう。あらゆる意味で資本主義文明のアイコンであった、ウォール街の世界のマネーが集中して目に見えない巨大な桁数の数字が行き交うバーチャルな金融資本主義の空間が選びとった容器としてのWTC、そうであったが故にターゲットとなり、ジェット機の衝突という最新テクノロジーにより崩壊した、という歴史的転回点を契機にした再建計画は必然的に多面的な政治の要請をも引き受けることとなります。今回は、このような障壁や多様なステークホルダーの主張に注目しながら主にWTC開発のマスタープラン、そしてプロジェクトを構成する超高層オフィスタワー群のデザインの変遷について考察していこうと思います。







メディアを通じた市民参加型だった初期のデザイン議論

跡地の再開発の議論は同時多発テロ発生後間もなく始まりました。ちょうどテロ発生直前の2001年7月に、地元の最大手デベロッパーであるLarry Silversteinが率いるSilverstein Propertiesが飛行場や港湾、橋やトンネルを管理するニューヨーク州とニュージャージー州の公共機関ポート・オーソリティー(Port Authority of New York & New Jersey、港湾公社)と99年間の長期リース契約を結んでおり(ちなみに、テロ発生時には保険の最終手続きが完了しておらずその後保険会社と損害賠償の訴訟が長期化します)Silversteinが事実上の再建計画の主導権を握ったことがその後の再開発を複雑化する大きな要因となりました。当時のニューヨーク市長(Rudolf Giuliani、彼は12月に退任が決定していました)はWTCの跡地には記念碑のみを建てたいとテロの被害者やその家族の立場に立って感傷的に述べ、一方でSilversteinは一刻も早くビルを再建して商業価値を求めたのです。喪に服す間もなくこのような二極化が世間も巻き込んで起こる中、ロウアーマンハッタンの相対的な衰退はさらに進み、一部の地域の商業および住居の稼働率が50%にまで下落し、観光客の足も遠のき、市民の生活の質も落ち始めていきました。危機的状況下にあったロウアーマンハッタンの再建のためにニューヨーク知事(George Pataki)とニューヨーク市長により2001年11月にロウアーマンハッタン開発公社(LMDC)が設立されました。LMDCのミッションは、犠牲者を称えた恒久的な記念碑の建立、ロウアーマンハッタンの復興、WTC再建を中核に21世紀のビジネス地区としての変貌、また活気ある住居地区としての変貌、でした。LMDCは市民の声を反映することに力を入れ、市民の声を集約した市民団体NPOの意見を尊重し、公聴会やワークショップを頻繁に開催しました。

1920-30年代にマンハッタンで開花し当時の建築デザインの最先端を飾ったアールデコ様式やミースのシーグラムビル(ブログ別記事にリンク)以降、ニューヨークの象徴とも言えるスカイスクレーパーも旧WTC以降はぱっとしない状況、またアバンギャルドな建築家達に大きなプロジェクトのチャンスが与えられていない近年の状況などから、ニューヨークがこのまま凡庸な建築で埋め尽くされていくのではないかという声が広がっていきました。そのような状況下で、2002年4月にLMDCはWTC再開発の青写真を募集し、15チームの中からエリス島の歴史的建造物やグランドセントラル駅の修復で有名な都市計画を得意とする地元のチームBeyer Blinder Belleを選出しました。同年7月にBeyer Blinder Belle とその他3つのチーム(後にマスタープランのファイナリストとなるSOMとPeterson Littenbergも含む)の合同で発表された6つのコンセプトデザインは都市計画のセオリーに忠実に用途・プログラムと各種建築規制から導かれる形態を効果的に結びつけた都市開発演習のお手本ともいうべき優等生的な案。一方、資本主義と民主主義のアイコンを再建するとともに、犠牲者の追悼を可能にする詩的な要素、等あまりに多くのものが期待されるWTCの再建計画としては力不足の感が否めなかったようで、様々な雑誌媒体や新聞でBeyer Blinder Belle の計画案は散々な批判に晒されました。

建築系の大学で学ぶ都市計画演習の優等生案のようなBeyer Blinder Belle主導プランの一つ 出所:CBS News (https://www.cbsnews.com/pictures/world-trade-center-proposal/)

建築系の大学で学ぶ都市計画演習の優等生案のようなBeyer Blinder Belle主導プランの一つ
出所:CBS News (https://www.cbsnews.com/pictures/world-trade-center-proposal/)

Beyer Blinder Belleの計画案に関するニューヨーク地元メディアの手厳しい記事
”The Firm of “Blah, Blah and Blah”

https://www.gothamgazette.com/rebuildingnyc/1095-the-firm-of-qblah-blah-and-blahq