1980年代とはどんな時代だったのか- 都市開発の観点から【1】
日本型近代都市計画システムの終焉
日本の都市計画は、「国土の均衡ある発展」を錦の御旗として策定される国土計画(1950年代以降五次にわたって策定されてきた「全国総合開発計画」)の下、大都市への過度の集積を回避するという基本路線を所与の条件として、主として近代的都市計画手法を都市開発コントロールのツール、また、社会資本整備事業のための様々な財源措置をインフラ建設のツールとしてきました。国土レベルでは、田中角栄首相時代に「日本列島改造計画」が上梓された頃を端緒に、後進地域の開発を推進する起爆剤として拠点開発を進め(工業コンビナート等です)、大都市圏とを結ぶインフラ整備に集中投資を行うとともに、都市レベルではいわゆる副都心開発を促進し、中心部における集積を極力排除し分散を進める方向性の開発政策が望ましいものとされてきたのです。非常に狭い国土、とりわけ都市的土地利用が可能な土地面積に集中し続ける産業活動と人口をどのように分散させ、それを効率的にネットワークしていくか、という考え方が背景にあり、それは広大な国土で都市間を結びつける中長距離交通インフラとインターネット通信技術に注力がなされた米国とは好対照な計画のあり様でした。
フランスの著名な地理学者であるジャン・ゴッドマンが提唱した「メガロポリス」の概念を、1960年代前半から日本の研究者・官僚が援用する形で東海道メガロポリス構想が提唱されました、ジャン・ゴッドマンは伊勢神宮を訪問した際に、五十鈴川の流れを目にして、「道」と「水」に精神と自然、共棲と循環の地理学的意味を体得したといいます。
政治的には、自民党による安定的な政権運営の下で、集票プラットフォームとなっていた主として地方・農村地域への社会資本整備財源の手厚い確保と大都市圏とそれらを結ぶインフラの整備が当時建設省を頂点とする官僚主導で展開されます。徐々に収益力を増し、政府やメインバンクによる庇護を必要としなくなっていった輸出産業とは異なり、建設業は官僚制多元主義の下で規制による手厚い保護を受け、その見返りとして主に地方における集票システムの中核となり政府を支えたわけです。
都市開発政策においても、こうした「分散」がキーコンセプトとなり、様々な施策と提案がなされました。20世紀の偉大な建築家である丹下健三は「東京計画1960」を発表します。同計画では、高度成長期の急激な人口増加に対し、東京における中世以来の求心型放射状の「閉じた」都市構造が耐えきれなくなるとして、新たに都心から東京湾を超えて木更津方面へと南東に延びる「線形平行射状」の「開いた」都市構造が提案されました。東京湾臨海部開発の暗黙のベースになっているともいえます。新宿、渋谷、池袋等の所謂副都心開発も1960年代以降順次進められ、これらは現在の日本の都市開発の最大の特徴ともいえる駅一体型複合都市の重要なインフラ基盤を形作っています。
「アーバン・ルネッサンス」と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
こうした「戦後日本の国土開発・都市計画」路線に対する重要な軌道修正が1980年代に訪れます。
中曽根内閣時代(1982年-1987年)における「民活」と「規制緩和」をその実現方策の中核に据えた「アーバン・ルネッサンス」です。この時期の都市開発政策に、現在の「都市再生」政策が有する多くの政策手法のルーツがあります。折しも、日本初の本格的複合都心再開発として注目を浴びた「赤坂アークヒルズ」が1986年の開業。「赤坂アークヒルズ」(赤坂・六本木地区第一種市街地再開発事業)は都内でも指折りの木造住宅密集地であった東京都港区の谷町周辺を再開発したもので、その後の森ビルによる再開発プロジェクトのレジェンド的なプロトタイプとなっています。
戦後日本はあまりにも膨大な面積の市街地再生に取り組む必要があったため、政府主導の都市計画だけでは限界があり、まずは自力で再建できる人から住宅を建てさせていく必要があった、このことが日本の都市の「土地利用の自由」、自由放任の建築活動の背景にあったともいえます。それが次第に高度経済成長の結果、無秩序な木造住宅密集地の拡大を招いたため、1968年に都市再開発法が成立してから旧建設省は木造住宅密集地の再編をあの手この手で進めようとしてきましたが、民間資本が入りやすい駅前の再開発等以外は遅々たる歩みでした。建設省や自治体が手をこまねいている間にも、森ビルによる建物や土地の買収と協議が地道に、しかし着実に進行していたのです。このことが示唆するように、1980年代以降の日本の都市再生政策は、民間事業者が事業化に食指を伸ばすようなポテンシャルがある地域でのプロジェクトを規制、税制、金融面等政策的に後押しする、という市場機能拡張的な政策として展開されてきたといえます。
バブル経済の時代背景
「アーバン・ルネッサンス」が提唱された当時の日本を取り巻く国内外の環境とはどのようなものだったのでしょうか。少し金融・経済的側面から俯瞰してみます。
第一に、国際政治・経済環境の観点からは、1985年プラザ合意による円高ドル安という国際金融市場での大きな潮目の変化がありました。
発信源は米国です。二度の石油ショックを経てインフレと景気停滞のスタグフレーションに見舞われた70年代以降の米国を立て直すために当時のレーガン政権は、大減税政策を進めるものの、減税分は貯蓄に回らず消費に回ったため(米国は40年前からその貯蓄過小体質は変わっていないのです)、想定した効果を上げられず、減税と軍事費増加等による財政赤字の拡大により長期金利が上昇、国際的なドル高現象が起こってしまったのです
1985年9月22日、ニューヨークのプラザ・ホテルに、米国や日本、西独、フランス、英国のG5の蔵相、中央銀行総裁が集まり、「ドル以外の主要通貨のドルに対するある程度のいっそうの秩序ある上昇が望まれる」という声明を発表、日本にとっては歯止めが外れたかのような円急騰の始まりでした。
一方、国内環境については戦後の高度経済成長を支えた様々な日本型システムが変質を余儀なくされていた時代でもあります。特に銀行システムが直面した環境変化がバブルの背景としては最も重要だと考えられます。
1970年代以降、多くの企業、とりわけ自動車やエレクトロニクス等の輸出産業がより多くのキャッシュ・フローを内部的に創出する能力を発展させる中で、メインバンクの影響力が落ち、収益性に陰りが生じ始めていました。また、いわゆる護送船団方式の下で、日本の銀行は新たな金融商品の開発が厳しく制限されていました。
同時代の米国の金融産業では、IT技術の劇的な発展に伴い、法人企業の財務データに関するデジタル情報の入手可能性が高まり、投資銀行、ファンド、証券分析サービスに代表されるような、マーケット志向型の様々な金融の専門知識が持つ価値が増大し、投資銀行業務(インベストメント・バンキング)が成長を遂げるとともに、潜在的な新しいテクノロジーの価値を評価し、それが産業にどのように貢献するかというストーリーを描き出してリスク資金を提供できるベンチャー・キャピタルが進化を遂げました。企業再生投資を行うプライベート・エクイティ・ファンドのセクターにおいて、KKRやブラックストーン・グループといった今や『ウォール街の帝王』と呼ばれるようなプレーヤーもこの時期に台頭してきたのです。バブル期には、世界の大手銀行時価総額上位10行の過半を邦銀が占め、日本の野村證券1社が叩き出す営業利益が米国大手証券5社の合計よりも多いとされる等、日本の産業システムはこの世の春を謳歌していたが、米国金融資本の質的な変化とイノベーションは当時水面下で既に始まっていたわけです。
日本の銀行は、製造業企業が遠ざかっていく中で、金融商品のイノベーションを担うにも様々な足かせを課せられた結果、ハイリスク・ハイリターン型の不動産融資にこぞって乗り出し、富裕層個人や中小企業といった新たな顧客の開拓と収益拡大に躍起になったのです。これらの新たなタイプの貸出先のモニタリング費用を費やす代わりに、銀行は貸出担保として確保していた不動産の期待価値増分によってリスクヘッジを考えます。他方でそれは、護送船団システムを通じて暗黙的にそうしたリスクを政府に転嫁したといえます。1990年代以降、このリスクは顕在化し国民負担として最終的に処理されることになります。このように、1980年代末の激しい資産インフレは、1985年のプラザ合意以降の円急騰によるデフレ・インパクトを危惧した通貨当局が過剰な流動性の供給を実施したためとされていますが、流動性の供給は、投機的な不動産や株式投資に対する融資を巡る銀行の群集行動によって創出された需要に応じたものにすぎなかった、という考え方が今では一般的でしょう。